終戦直後の日本の自動車産業はトラックの生産が主でした。

終戦後の1945年当時は、日本での乗用車の生産は、連合軍総司令部(GHQ)によって禁止されていました。

しかし、月産1,500台のトラックをつくる事がGHQから許されていました。戦後まもなくは、車の生産と言えばトラックが中心だったのです。戦後の復興に役立つという意味でもトラックの需要は高かった事が考えらえます。そして1950年には、4万台近い三輪自動車が生産されていました。

戦後間もなくは、乗用車は高価であるためタクシーやハイヤー業界での需要と一部の上層階層の人にしか需要はなかったのですが、1947年に1500cc以下の乗用車の生産がGHQから許可され、1949年にやっと乗用車の生産が全面的に出来るようになりました。

しかし、1949年 日銀総裁の一万田尚登(いちまんだ ひさと)は、日本での乗用車の生産を否定的に考えていました。乗用車は性能的にもアメリカには勝てないのだからアメリカから輸入すればいいという趣旨の発言を産業界にしていました。

日銀総裁としては戦後の経済復興が一番大事な懸案であったので仕方のない事かもしれません。基幹産業である鉄道、鉄鋼、造船に人、モノ(資源)、資金は投入されれて、自動車産業にまでは手がまわらなかったと考えられます。

政府、日銀、経済界までもが、自動車メーカーの乗用車の生産には消極的な時代だったにも関わらず、自動車メーカーが乗用車の生産を諦めず生産できたのは、やはり朝鮮戦争の特需とアメリカのビッグスリーが日本の市場に魅力を感じず乗用車の輸出を増やさなかった事によるものが大きいと言われています。

1950年以降になってやっと政府が、自動車産業の発展の可能性に着目するようになります。そして、通商産業省は、アメリカからの自動車の直接投資や輸入に制限を設けて国内の自動車産業を育成する方向に舵をきったのです。

自動車の生産技術を上げるために海外の自動車メーカーと技術提携を進める政策も展開しました。

日産は、1952年にイギリスのオースチンと契約、1953年には日野自動車がフランスのルノーと提携するなどヨーロッパの自動車メーカーの技術を吸収していきました。国土が狭く道路事情も悪い日本では、アメリカ車のような大型車ではなく比較的小型車が多いヨーロッパの自動車メーカーを手本にしたほうが良いと考えたからでしょう。

そんな中、電気自動車は、1954年に街角から姿が消えた。その理由は、石油事情の好転と朝鮮戦争にともなう鉛価格の高騰が原因とされています。

 

 

 

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ